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1964年(昭和39年)7月8日生まれ。蟹座でB型。
広島市出身、東京都国立市在住。 学生時代は水泳部(ちなみに100m自由形のベストタイムが60秒ジャスト)。 一番の趣味はアメリカンフットボール観戦で、1992年以来のNFLファン。好きなチームはTennessee Titans。 好きなアーティストのコンサート(浜崎あゆみ、クラシック等)に行ったり、路上ライブで見つけた若手のライブに行ったり。ピアノを始めたのも近年のマイブーム。演奏の動画は、以下です。 「片想い」 「17才」 「サイレント・イヴ」 「Honesty」 「We're All Alone」 「スター・ウォーズ」 「Voyage」 「上からマリコ」 「希望の轍」 ブログパーツ
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『八甲田山 消された真実』(伊藤薫/山と渓谷社、2018)
☆☆☆★★ 1902(明治35)年1月、雪中訓練のため、青森の屯営を出発した歩兵第五聯隊は、八甲田山中で遭難、将兵199名を失うという、歴史上未曾有の山岳遭難事故を引き起こした。 当時の日本陸軍は、この遭難を、猛烈な寒波と猛吹雪による不慮の事故として葬り去ろうとした。 1964年、最後の生き証人だった小原元伍長が62年間の沈黙を破り、当時の様子を語ったが、その内容は五聯隊の事故報告書を疑わせるものだった。地元記者が「吹雪の惨劇」として発表、真実の一端が明らかにされたものの、この遭難を題材にした新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』(新潮社、1971年)と、映画「八甲田山」(1977年)がともに大ヒット、フィクションでありながら、それが史実として定着した感さえある。 著者は、その小原元伍長の録音を入手、新田次郎の小説とのあまりの乖離に驚き、調査を始めた。生存者の証言等大量の資料をもとに、現場検証をも行なって事実の解明に努めた。埋もれていた小原元伍長証言から事実を掘り起こし、さらに、実際の八甲田山の行軍演習、軍隊の編成方法、装備の問題点等、軍隊内部の慣例や習性にも通じているの元自衛官(青森県出身)としての体験を生かしながら執筆に厚みを加えた。 新発見の事実を一つ一つ積み上げながら、「八甲田山雪中行軍」とは何だったのかその真相に迫った渾身の書、352頁にもわたる圧巻の読み応え。(以上、出版社の内容紹介より抜粋) 著者は、1958年生まれの元自衛官。2002年10月、3等陸佐で退官。自衛隊奉職中の平成9年12月中旬、羽田から青森までの飛行機で八甲田山を見て、あの山で199名もの将兵が失われたことをいつか明らかにしたいとの想いから、20年をかけた今、本著完成に至ったとのことです。 自身、陸上自衛隊にて八甲田山での演習には何度も参加し、夏はもとより冬の過酷さは身にしみてわかっておられるよう。 さて、私もずっと昔に新田次郎の小説か、または記録物は読んだ覚えがあります。五聯隊は遭難し、ほぼ同日時に別方面から出発した三十一聯隊は無事行軍を終えた。その違いは何だったのか。 記憶では、五聯隊は悪天候の中の強行軍であり、見当識を失うほどの猛吹雪で指揮も乱れて遭難に至った(という、いわば天災)。 が、著者は真っ向から異を唱え、人災であるとします。しかも、上記の内容紹介にあるように、当時の陸軍の正式な報告書には、生き残った人の証言や、当時の新聞記事との齟齬も多い。要するに、都合が悪くないように捏造されたのだとする。 遭難について、そのいろいろな要因が指摘されていますが、幾つか紹介すると、 1)まず青森県には、三十一聯隊と五聯隊と、二つの聯隊が配備されていた。雪山経験が豊富な地域出身の兵卒から構成されていた三十一聯隊が冬の八甲田山の行軍を行うと聞き、五聯隊(因みに、岩手/宮城出身が多く、冬の青森を知らない)は対抗意識から、ほとんど準備もないまま同様の演習を決定した。 2)数年前の日清戦争では、冬の山東半島で凍傷にかかる兵が続出したことから、対露戦も睨み、研究、練成という目的もあったが、何しろ冬の青森を知らないまま、とにかく(無謀な)「研究」目的の演習となった。 3)「冬の青森」を知らないとは、例えば、橇が埋もれると動かなくなるということを知らない。深雪に埋まり、滑板より深く埋もれた橇は、それ自体が抵抗となってしまい、橇を引く兵卒の体力を容赦なく奪う(最終的に、橇は遺棄されて、荷物は兵隊が背負って運ぶことになった)。 数メートルもの深雪が予想されるのに、露営に必要なスコップの携行数が足りていない。摂氏零下十数度の酷寒なのに、携行糧食が凍らないような措置がされていない等々、挙げればキリがない。 4)そもそも、司令官自身も八甲田辺りの地形や地勢を知らない。兵卒も、三年の兵役期間で交代するので、冬の八甲田山の演習を経験した人間が少ない。そんな中、猛吹雪でホワイトアウト状態で、「この先に(目的地の)温泉があるはず」と(道もわからないのに)行軍の命令を出す。取り敢えず露営でもして体力を温存し、救援を待てば良いものを。著者からすれば、よくある山の遭難のセオリーどおりとしか言いようがない。 5)最後に、肝心な聯隊長が事態の深刻さを理解しておらず、救援部隊の派遣も遅れた。もちろん、事故後に事故原因の検証は行われたが、本著で著者が詳細に引用しているとおり、報告は矛盾だらけで(≒事態を掌握できていない証拠)、かつ、保身のための「嘘」と言い訳に満ちている。 と、散々な要因が重なった結果だったということです。 元自衛官らしく、戦争ならともかくとして、演習で死者が出るなどもってのほかと、怒り心頭の筆致であります。演習前に入念に準備を行い、指揮命令系統をはっきりさせなければならない。 しかるに、当時(日清戦争直後)の事情もあり、華族、平民の出自の差、士官学校のエリートか否か等で、正に遭難の危機に直面しながらも、誰も適切な指示を出せなかった(もっとも、既に低体温症の影響で正常な判断能力がなくなってきたようですが)。 著者が自ら経験した自衛隊時代の演習からしても厳しそうな冬山での演習が、明治時代、装備も今から思うとあり得ないほど劣悪で、しかもこの年は旭川で観測史上最低気温の零下41℃が記録されたほどの大寒波が来た時でもあった。 もちろん、この経験が多少なりとも活かされて、すぐ後の日露戦争になった訳ですが、軍隊という組織が如何に非人間的か、失敗から学ばないか等、組織の悪い面ばかり見せられた想いがしました。 何ともはや、犠牲になった人を悼む言葉もありません。
by sergeant_cooper
| 2018-06-17 07:02
| 書籍・映画
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