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1964年(昭和39年)7月8日生まれ。蟹座でB型。
広島市出身、東京都国立市在住。 学生時代は水泳部(ちなみに100m自由形のベストタイムが60秒ジャスト)。 一番の趣味はアメリカンフットボール観戦で、1992年以来のNFLファン。好きなチームはTennessee Titans。 好きなアーティストのコンサート(浜崎あゆみ、クラシック等)に行ったり、路上ライブで見つけた若手のライブに行ったり。ピアノを始めたのも近年のマイブーム。演奏の動画は、以下です。 「片想い」 「17才」 「サイレント・イヴ」 「Honesty」 「We're All Alone」 「スター・ウォーズ」 「Voyage」 「上からマリコ」 「希望の轍」 ブログパーツ
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『明治維新 司馬史観という過ち』(原田伊織、森田健司/悟空出版、2017)
☆☆☆☆★ 「官軍史観、即ち、薩長史観とも言われる歴史観は、明治維新と呼ばれる出来事の実相の多くを隠蔽しており、時に捏造さえ行っている。驚くべきことに、薩長政権の帝国主義的膨張主義によって民族の歴史上初めて大敗戦を味わい、国家を滅亡させるという事態を経験しながら、戦後再び官軍史観は不死鳥の如く蘇り、却って明治維新というものを麗しい物語として美化してしまったのである。私の考えでは、世に言う司馬史観なるものが、このことに大きく関わっているのだ。(「はじめに」=原田伊織より) 読者の皆さんに伝えたいことは、この一文に集約されています。「歴史の検証にタブーと例外があってはならない」と常々語る原田伊織先生。 「歴史観は、人のアイデンティティの根幹を成し、生きていく際の指標となるものである」と語る森田健司先生。 定説を覆した作家と気鋭の学者が、「明治クーデター」の真相を延べ15時間にわたり語り尽くした徹底対論です。 明治維新から150年、あのクーデターを麗しい物語として美化してしまったことに大きく関わっている「司馬史観」に、真面目に向き合った日本人必読の書です。(以上、出版社の内容紹介より抜粋) 作家の原田さんの本、『明治維新という過ち』(毎日ワンズ、2015)にてまずは口火を切られたよう(未読)で、私自身は2017年4月、『三流の維新一流の江戸』(ダイヤモンド社、2016)で初めて、「定説を覆」す議論に触れました。今回はさらに踏み込んで、大阪学院大学教授という森田先生と「司馬史観」に結びつけての対談です。 私もこれまでいろいろ歴史書を読んできて、当の司馬遼太郎の小説ですが、その面白さはともかくとして、その歴史観には諸手を挙げて賛成できないのではないか、と疑念も感じるようになってきました。で、正にピンポイントとも思える本著を見つけて、さっそく読んでみた次第です。 前掲著でも原田さんが力説していたこととも重なりますが、明治維新を革命だの、封建制との訣別だのとするのは短絡的過ぎる。幕府は最後まで当事者能力を持って列強と交渉していたし、明治の志士などと呼ばれる人/薩長土肥は、テロリストまがいの暴力を行使してクーデターを起こしたに過ぎない。その後の西南の役や奥州戦争においても、官軍(≒薩長)が「賊軍」として討伐した旧幕府側勢力に対しては、正義も筋論もあったものではない。単に、鳥羽伏見の戦い等で邪魔された私怨を晴らすための所業である。明治時代になってからも、出世した「志士」たちは金に汚く、収賄まみれ。つまるところ、彼らには行政能力はなく、国家を支え続けたのは江戸時代からの「ノンキャリア」とも言うべき武家精神を持った人々だった等々。 これらについては、前掲著でも触れてあったように思いますが、さて司馬史観です。 お二方とも、作家・司馬遼太郎のファンではあるし、その歴史小説は「小説としては面白い」と、異論はない。ただ、司馬遼太郎が「明治は、透き通った格調の高い精神で支えられた、リアリズムの時代だ」と持ち上げておいて、その後の大正~戦前の時代を(それまでとは)「連続性を持たない」「鬼胎」の時代だとして斬って捨てるのを、大いに問題視している。 さらに、小説としての面白さから、あたかもこの小説が史実として受け止められ、歴史学者までもその史観に染まっている傾向さえあることも指摘。本著の読者である私の言葉で言えば、司馬史観とは、あくまで作家の主観に過ぎないので、小説として話半分に読むべし、と言ったところでしょうか。 日本の近代を考える際、どうしても明治維新から戦前までの時代をどう包括的に捉えるのかという問題に向き合わざるを得ませんが、学校の教科書や、司馬遼太郎の世界が全てではない、これだけを信じてしまうのは誤りだ、ということかと思います。 他の類書を読んだ折にも、私の中にややそういう読後感が形成されていましたので、本著が真正面からそう断じているのを読むと、この議論も十二分に「あり」なのかな、と思った次第です。
by sergeant_cooper
| 2018-02-11 05:12
| 書籍・映画
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