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1964年(昭和39年)7月8日生まれ。蟹座でB型。
広島市出身、東京都国立市在住。 学生時代は水泳部(ちなみに100m自由形のベストタイムが60秒ジャスト)。 一番の趣味はアメリカンフットボール観戦で、1992年以来のNFLファン。好きなチームはTennessee Titans。 好きなアーティストのコンサート(浜崎あゆみ、クラシック等)に行ったり、路上ライブで見つけた若手のライブに行ったり。ピアノを始めたのも近年のマイブーム。演奏の動画は、以下です。 「片想い」 「17才」 「サイレント・イヴ」 「Honesty」 「We're All Alone」 「スター・ウォーズ」 「Voyage」 「上からマリコ」 「希望の轍」 ブログパーツ
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どこぞのサイトで、いま流行?の「成果主義」批判の記事を見つけましたので、大変長文にはなりますが、以下に紹介します。
ちなみに、個人的には著者の意見にまったくもって全面的に賛成です。 *** 「富めば嫉視され、貧しければ蔑視される。力があれば憎まれ、力がなければしいたげられる。君主への忠誠がかならずしも正義でないことを、他国の歴史がおしえている…そういう時代なのである」 ある小説を読んでいて、この一節で目が止まった。「そういう時代」とは、中国の春秋戦国時代のこと。けれど、「君主」や「他国」の部分を「会社」や「他社」に置き換えれば、そのまま今日の状況を言っているに等しい。そう思えたのである。 一言で言えば、疑心暗鬼。その鬼は、疑われる者、疑う者の両方の心の中に棲んでいる。だから、不正やウソが次々に暴かれる。鬼は、暴かれる側、暴く側両方の心の中に棲んでいる。だから、そのネタは尽きることなく、非難の声も衰えることがない。そんなことを痛感させられた1年だった。誰にも頼まれていないけど、一丁前に今年を総括してみればそんなところか。毎年末に京都の清水寺で書かれる「今年の世相を表す漢字」も「偽」だったことだし。 「偽」の源 年金問題などという大掛かりなものまであったが、何といっても目立ったのは「白い恋人」「赤福」などなど山のように起きた偽装問題である。その背景には、「食の安全」への関心の高まりなどという要因もあっただろう。ネットの世界では珍しくない「吊るし上げ」がマスメディアの世界に普及したことも一因、という見方もある。おっしゃるとおりだが、やはり根底にあるのは「拝金主義の台頭」「組織の硬直化」といったことではないかと思うのである。 そして、もう一つ。「密告社会の出現」だ。今年槍玉に上がった事件の多くは、お役所や警察の調査などで明らかになったわけではなく、密告、つまりは内部告発によって露見しているのである。社長が「社員は会社に対する忠誠心を持っているもの」とか勘違いして「トカゲの尻尾きり」を試みたものの社員の逆襲にあって大炎上、などという事件もあった。 ちなみに拝金主義の台頭、組織の硬直化、密告社会という三つの「現象」は、その発生要因の探求を含め長らく私の「思索ネタ」になっていたものである。偽装ではなく、ここ10年くらいの間に蔓延した成果主義というものについて考え、その結果として行き着くものとして目星をつけていたのが、まったく同じくこの三つだった。この一致は偶然なのか必然なのか。もし必然なのであれば、日本で成果主義が広く導入された結果として、多くの人たちの意識が変化し、それが回りまわって「偽」の大量生産と大量発覚に結びついたことになる。ああおそろしい…。 なぜうまくいかないか で、本題の成果主義である。その定義を明確にすべく調べてみると、類語は「結果主義」で、対する用語としては「職能主義」「過程主義」「努力主義」「能力主義」「実力主義」などがあるらしい。 日本では成果主義を能力主義と同義に扱う傾向があるが、能力主義は結果に結びつかない潜在能力をも評価対象にするが成果主義はその点を省みないので、本来は全く異なるものなのだという。 その制度が多くの日本の企業で採用されたわけだが、うまく機能しているという話はあまり聞かない。つい先日も「このままでは成果主義で会社がつぶれる」という記事があった。アンケートで成果主義の導入が「意欲を低めている」と答えた人は「高めている」と答えた人の2倍以上で、目標達成度(成果)を評価されることが、成長に「結びついていない」と思う人が約6割を占めたのだという。 この調査結果のように、モチベーションの高揚を目的に導入した制度がその逆の効果を発揮しているとしたら、とんだ悲劇である。しかも、問題はそれだけではない。メディアで紹介される意見や実例を拾い読みするだけでも、導入当初はあまり想像していなかった、多くの弊害があるらしいことがわかる。 出世が「なくなる」? その一つが、「拝金主義の台頭」というものである。「成果」としてアピールしやすいのは数字。何といっても一番効くのが「私が提案したこの事業で、××円を売り上げた」「もろもろの努力によって計画比120%の利益を達成した」といった金額だろう。それを言いたいから、みな短期的に儲かることをやりたがる。利益を積み増すためにコストを切り詰め、その弊害には目をつぶる。 その結果として、「手間がかかるけど成果にならない」「成果は出るけどみえにくい」といった類の仕事は、誰もやらなくなってしまう。その代表例が他部門などへの支援活動であり、若手の教育である。確かに「すげー教育してあいつを一人前にした。今やすごい戦力になっているけど、それは私の努力の結果」とか上司にアピールしても、「はいはいご苦労さん。今期は言うべき成果が何もないわけね」と思われるのが関の山だろう。 次に、「組織の硬直化」。一昔前まで、上司は仕事上の指揮者であった。だから「仕事上で意見が対立し上司と大激論」などということもできただろう。ところが今は、指揮者でありかつ評価者、つまりは自分の給料を決める人なのである。そもそもこの両機能は独立したものであるはずなのだが、実際はそううまくはいかない。評価者の反感を買えば給料が安くなるかもしれない。だから逆らわない。その結果、上司の仕事上の判断を部下がチェックするという機能が損なわれる。 当然、それを覚悟で文句を言う部下もいるだろう。そのような人でも昔なら、「あいつの態度は気に入らないけど順番だからやらせるか」と、管理職にもなれたかもしれない。けれど、選ばれた人しか上に昇れない仕組みは、反骨精神あふれる人材には生きにくい制度となるだろう。昔は「上司に逆らうと出世が遅れる」と言われた。今は「出世がなくなる」のである。 お前なんか絶対に合格せんぞ 経営をテーマに取材を続けておられるジャーナリスト経営をテーマに取材を続けておられるジャーナリストのルーシー・クラフト氏は、こう話しておられた。「企業が失敗するケースの多くはリーダーのせい。逆に成功したケースをみると、実はリーダーではなくフォロワー(部下)が欠かせない役割を果たしている。つまり、企業が失敗せず成功するために必要なのは、上司が間違ったときに指摘できるフォロワーの存在なのです」。それを妨げるのが、特定ポストへの権限の集中と、それによって引き起こされる「イエスマンの増殖」なのか。 そういえば昔、こんな話をどこかで読んだことがある。作家の藤本義一氏が若いころ、あるラジオ番組でゲストに故・松下幸之助氏を呼んだことがあったらしい。その番組内で藤本氏は「メーカーが次々に新製品を出して買い替えさせようするものだから消費者は大変迷惑している」などと、持ち前の毒舌をもって家電批判を繰り広げた。そう言われた幸之助氏は、真っ赤になって怒った。けど、適当な反論ネタが思い当たらない。結局、「何だ、そんな長い髪をして(当時藤本氏は長髪だったらしい)。お前なんかウチの入社試験を受けに来ても絶対に合格せんぞ」などと、見当違いな個人批判を藤本氏に浴びせた。ふとスタジオの外を見ると、幸之助氏の「取り巻き幹部」のような人たちが、親の仇でも見つけたような恐い顔をして藤本氏を睨んでいたという。 この話には後日談がある。タクシーに乗っていると、運転手にこう話しかけられた。「藤本義一さんですよね。先日松下幸之助さんをお乗せしたのですが、ずいぶん褒めておられましたよ」。「冗談でしょ」と言ったけど、どうも本当らしい。「いやね、えらく気骨のある方だとベタ褒めでした。けどね、自分の周りにはそんな人が誰もいなくなったと、それは嘆いておられましたよ」。さすがに幸之助氏くらいになると、まっすぐに意見できる人は周囲にただの一人もいなくなるらしい。けど、そういうことに自ら気付いて、嘆くなどということは、誰にでもできることではないだろう。 そして最後は、「密告社会の出現」である。さる企業の人事担当者に聞いた話によれば、人というのは程度の差こそあれ、自身の評価には甘く、他人の評価は辛くなりがちな存在で、極めて公正な評価をしたとしても多くの人が「不当に低い評価を受けた」と感じるのだという。さらに、あるエコノミストの方に教わった行動経済学の原則によれば、人は「損をした」ときに「得をした」ときの3倍大きい精神的ショックを受けるという。 論理から導かれる結論 これを信じるなら、成果主義を導入すれば原理上、高揚感を感じる人より心を傷付けられる人の方が多く、かつその感情の総和は圧倒的に後者の方が大きい、ということになる。この法則が実際のものになっているためか、多くの方が「成果主義の導入によって、全体としてはモチベーションの低下が目立つようになり、かつ会社への忠誠心が著しく低下した」と指摘しておられるようだ。 もう一つ問題がある。成果主義の導入に歩調を合わせるように、多くの企業が派遣社員や契約社員などの、いわゆる正社員以外の労働力を大いに活用するようになったことだ。正社員を階層化し、さらに正社員の下に新たな階層を設けるということか。何だか、狡猾な徳川幕府の身分制度に似てなくもない。 この結果として、「社の実情は十分把握しているが、社への忠誠心などというものは持ち合わせていない」という従業員が社内を闊歩することになった。もちろん、このことは一概に弊害とはいえない。ある面をみれば、企業の透明性が増すキッカケにもなるからだ。けれども逆に、この反動として報復や威嚇の常態化、従業員に対する管理や監視の強化、企業上層部の情報の囲い込みが進む可能性もあるだろう。とても危険な香りがする。 このほかにも多くの弊害が、実に多くの人たちの口から語られている。そして結論はというと、多くの議論で「成果主義という制度自体が悪いのではない。公平な評価ができてない、透明性がないといった運用上の問題がこうした弊害を生むのだ」というところに落ちていく。それも真実なのかもしれない。けれど、ここに挙げた三つの弊害は、いくら評価を公正にしたところで解消しないのではないかとも思うのである。 処方箋はあるのか では、それらの弊害はどうしたらなくせるのだろうか…では、それらの弊害はどうしたらなくせるのだろうか。それを皆無にすることは無理だとしても、緩和することは可能なのだろうか。そう考え続けてきて思い当たったことが、いくつかある。それらをまとめて一言でいえば、「格差というものに敏感な人間が、分業しながらも争わず、誇りを失わずに存立していく仕組みを作る」ということ。そんな立派なものがいとも簡単にできるとは思わないが、それを作ろうと知恵を絞り、行動することが重要なのだと思う。 この仕組みの一形態については、以前に別に書かせていただいたが、要点だけを抜き出してみたい。 すなわち、「組織を硬直化させ、みなが疑心暗鬼にとらわれてお金しか信じられなくなる」という現象が発生する原因の一端は、選ばれた一握りの人たちが、高い地位(役職)と権力(指揮権、人事権)のみならず、富までも得て、選ばれなかった大多数の人たちから士気を奪っていることにある。それを解消するには、例えば役職と給料を切り離せばよい。管理職にあるものは、指揮権を持つ。けれど、その権力の大きさは給料の高さを保証しない。こうして、「地位」「権力」「富」「名誉」といった優位性を、「独立したパラメータ」にしてしまうのだ。 身近な例でいえば、プロ野球チームがそう。人事権を持つのはオーナーだが、現場の指揮権までは振るわない。それを担うのは監督だが、その任にあるものがチーム一番の高給取りということではない。監督より10倍以上稼ぐ「平」の選手が監督の指揮下にいくらでもいる。ただし、その年棒は人気と必ずしもリンクしない。若くて薄給だがファンから熱狂的に支持される選手もいれば、すでに下り坂でもチーム内で尊敬される選手もいる。それでいいのだ。 人事にも市場原理 もう一つ、「人材の流動性がない」ということも多くの人たちから士気を奪う原因となっているのではないか。ものの本によれば、かつて多くの日本企業が採用していたのは「職能主義」であるという。「能力があれば実績があがるだろう」という予測のもとに人事制度を組み立てる方式だ。これに対して成果主義では、能力があっても、どんなに努力しても結果が出なければ評価をしない。つまり、能力があり努力しても結果が出なかった場合は、その責任をすべて社員に負わせるのである。 ただし実際には、成果が出ないのは企業の経営判断に属する問題かもしれず、上司の能力が低いせいかもしれない。けれどもそのような問題は、成果主義だけでは十分に抽出できない。最悪の場合は、低い評価を付けつつ働かせ続ける、いわゆる「飼い殺し」が横行することにもなるだろう。つまり成果主義というものは、「悪い評価を受ける」ことを担保する別の制度をこれに抱き合わせなければ健全に機能しないのではと思うのである。 それが、リソース流動性の確保である。つまり、上司によって自分が評価されることを許容する代わりに、自身で上司を選ぶ自由を保証してもらうのである。例えば、自分の評価が低いのは上司や部署のせいだと思った人は、申告によって簡単に異動させてもらえるようにすればよい。こうすることで、「能力の低い上司」「スジの悪い事業担当部署」からは部下がどんどん逃げていく。自律的に「選択と集中」が起こるのである。さらにいえば、日本企業の大多数が成果主義を導入するならば、企業内だけでなく社会全体にもこのような流動性を確保する必要があるだろう。 そして、最後に挙げておきたい問題が、「私たちはきちんと主張ができるか」ということである。これがうまくできないから、大勢の人たちがフラストレーションを溜め込んでしまい、その結果として気持ちがささくれ立ってしまうのではないかと。文化というか風習というか、そんなところに根ざす奥深い問題である。 なぜ「バカみたい」にすると得なのか 一つは、割り切りがうまくできないということ。よく聞くのは「米国人は会議の席でつかみあいの喧嘩になるのではと思うほど激しい論争をしながら、夜になると同じ二人が肩を叩き合って談笑したりしている。すごい奴らだ」といった話だ。その割り切りができてこそまともな評価面談などができるのだろうが、私たちに同じことができるだろうか。 そもそも私たちは、小さい頃から「奥ゆかしさ」とか「謙譲の美徳」などという倫理観を教え込まれている。大きな成果を上げたとしても、「いや私がしたことなんか大したことなくて、みんな××さんのおかげです」などという。本心はそうでなくても、そう言うことが習慣になっていたりするのである。全員がそうであれば問題も少ないだろうが「いや、みんな私の成果です」などという人もいたりするからややこしい。 かつて、日本的な「そんなそんな私なんて」という風習について思索に耽っていて、こんな法則を思いついた。すなわち、「バカみたいにすれば得をする」の原理である。まず、人の様相として「バカみたい」、その反対の「偉そう」という二つのパターンを設定する。まず、バカみたいな場合、本当にバカでも誰も驚かない(評価は△)が、本当は偉かったりすると驚きとともに「本当はスゴいんだ」と言ってもらえるだろう(評価○)。逆に、偉そうにしていた場合、本当に偉くてもそれは当たり前(評価△)。逆に、偉そうでバカだったりすれば「なにあいつ、最悪」ということになる(評価×)。 結果は明らかだ。真実はどうであれ「バカみたい」にしておくに越したことはない。そんな、生きる上での知恵が「奥ゆかしさ」の本質なのではと思ったりしたわけである。 でも成果主義下の日本では、そうも言ってはいられない。とりあえず偉そうにしておくということが、新しき「生活の知恵」になるのだろうか。日本文化を愛する身からすれば、ずいぶんさびしいことではあるが。 以上
by sergeant_cooper
| 2008-01-11 01:55
| 時事問題
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